完全ミイラの話

1972年4月のこと、中国で長沙市郊外の馬王堆古墳が発掘され、まるで生けるがごとき女性の遺体が発見されました。


古墳は、後漢時代といいますからAD1世紀前後、2000年前のものでした。


女性は年齢50歳前後の貴婦人で、密封された三重の棺の中におさめられ、赤い液体の中に浸っていました。


液体がなんだったかくわしい発表がなかったのですが、水銀を含んでいたとかで、女性の体は指で押すと弾力性があり、胃の内容物まではっきり検証できたといいます。


・・・つまり遺体は、完全な缶詰の状態であったらしく、アルコール漬と同じような保存状態でみごと2000年の星霜を経たわけです。


もっとも私は、このニュースを聞いた時、


「いや、待てよ、日本でもこんなに古いものじゃないけど、同じような例がいくつかあるぞ」


・・・と思ったものです。


日本のミイラといえば、すぐ頭に浮ぶのは、岩手県平泉、中尊寺に残る藤原三代のミイラが有名ですが、(これはいわば人間の干物のようなものですが)もっと完全な遺体が見つかったことがあるのです。


第ニ次大戦前のことです。

ニつの博覧会とその前後 4

やがて歴史の流れは一転して、舞台は西方に移ります。


1893年5月、シカゴでコロンブス世界大博覧会が開かれ、全国から3000万人近い人びとが見物にやってきました。


1830年ごろにはまだフロンティアにすぎなかったシカゴは、いまではメトロポリスとして、ニューヨークに次ぐ大都会となりました。


同時にシカゴこそは文明がフロンティアに建設した輝かしい成果でした。


しかし半面では、資本と労働の相剋がこの新しい巨大産業都市に暗い影を落としはじめていました。


これより先、1886年シカゴのヘイマーケット広場で、警官隊に爆弾が投げられるという事件が発生し、無政府主義者4人がその犯人として絞首刑に処せられました。


これがヘイマーケット事件です。


この事件は政府と企業を震憾させるとともに、労働者の闘争をいっそうかき立てました。


それから間もない1893年、シカゴ世界博のにぎわしさをよそに、アメリカは1870年代よりさらに深刻な恐慌に見舞われていました。


600以上の銀行が破産し、企業倒産も1万5000件に達しました。


とくに目立ったのは鉄道会社の倒産で、同じ年に営業路線3万マイルに及ぶ鉄道会社74社がつぶれました。

ニつの博覧会とその前後 3

どの機械をとっても文明がもたらした輝かしい進歩を誇示するものであり、人びとはアメリカの将来に国民的自負と期待を抱いたにちがいありません。


しかし、同時に巨大なコークス・エンジンが人びとに「機械には抵抗できない」という畏怖心と無力感を与えたことも否定できません。


『進歩と貧困』という本を書いた当時の評論家ヘンリー・ジョージはそのなかで、機械は進歩のシンボルですが、また同時に人から職を奪ったり、人間をこれに従属させるものであるというアメリカ企業文明の二面性とそのパラドックスを鋭く指摘しました。


・・・しかし、人びとは高圧的な機械に抵抗しなかったわけではありません。


当時最先端の機械であった鉄道は、労働者が敵対視する最も大きな目標となりました。


フィラデルフィア博の翌年、1877年にはボルティモア・オハイオ鉄道のマーティンスバーグ駅(ウェストバージニア州)で、経営者の要求する10%の賃下げに対し、鉄道労働者がストに突入しました。


これに同情した大衆もストに加わり、騒ぎが大きくなったので、州兵が動員され、死傷者も出る始末となりました。


この争議は枯野に火をつけるようにアメリカ各地に燃え拡がりました。

ニつの博覧会とその前後 2

南北戦争中の不換紙幣(グリーンバックス)の乱発、戦後の鉄道ブーム、信用の膨張によって過熱した経済は、突然失速して急下降し、しばらく立ち直ることができなくなりました。


戦争中政府に頼まれて、大量の連邦債を新規の商法で売りまくって成功したフィラデルフィアの金融業者ジェイ・クックは、1873年9月18日の暗い金曜日、第二の大陸横断鉄道ノーザン.パシフィックの資金調達に失敗して、店の重い鉄扉をかたく閉ざしてしまいました。


この連鎖反応で多くの銀行の破産、10日間にわたる株式取引所の閉鎖、党換の停止などの恐慌を招きます。


他方、農産物価格の急低落、大量の失業や賃下げは、農民や労働者を塗炭の苦しみに追い込みました。


これとは対照的に1876年、まだ恐慌の最中に、フィラデルフィアでは盛大な建国百年記念博覧会が開かれました。


この博覧会の目玉は何といってもその機械館で、アメリカの最新技術の粋が展示されました。


レミントン社は発明家クリストファー・ショールのタイプライター。


トマス・エディソンは多送信電報システム。


アレキサンダー・グラハム・ベルは世界最初の電話通信システム。


・・・またその巨大さで人びとの注目を浴びたのは、高さ30フィートというコークスの蒸気機関でした。

愛犬の健康を守る! 2

犬にもストレスがかからない快適な生活をつくってやらなければなりません。


そのためには・・・


●愛情をこめたスキンシップ


●十分な散歩と遊び(運動)


●季節に合わせた住環境


特に散歩は日課とし、毎日欠かさず出かけることが愛犬の心身を満足させる大切なポイントです。


無駄吠え防止もキチンと行ないましょう。


毎日犬に接していると、健康状態をチェックできるものです。


でもジワジワと進行する慢性化した病気は急性ほど症状が表にでないために、病気の知識がなければ見逃しやすいことも知っておくこと。


「この子は耳をかくのがクセなの」などと・・・


飼い主がそうした症状を病気だと知らずに、単なるクセだと思っている場合、これはとても危険です。


時間が経てば経つほど病気が進んでいることを忘れないでください。


愛犬の健康を守る!

愛犬の健康を守るには、飼い主の愛情はもちろんのことですが、つぎの4つが大切です。


◎十分な栄養


◎適度な運動


◎毎日の手入れ


◎病気の予防規則


正しい食事(回数・量)を与えることはもちろんですが、毎日の手入れや散歩などの適度な運動は、健康チェックのうえでも欠かせません。


健康管理はあきずに毎日続けていくことに意昧があります。


より快適に過ごせるよう犬の様子に毎日気を配るようにしたいものです。


また、予防できる病気はチェックして予防接種を行い、必要な定期検診もできるだけ受けるようにしましょう。


健康な犬に成長するためには、食生活や手入れの大切さはもちろん、これに加えて忘れてはならないのが、心の健康です。


犬も室内ばかりで過ごしていたり、1日中散歩もできず、犬舎につながれたまま留守番ばかりさせられていると、イライラ、欲求不満が昂じます。


そのはけ口を求めて、ものをかじったり、ムダ吠えしたりの悪い行動にでてしまうのです。


このような場合には、無駄吠え防止しなくてはなりません。


英語で日記を書く

このこともすでにあちこちで書いたので繰り返しは避けるが、ただ一つ触れなかったこと、それは、英語で日記を書くことが、私自身のスピーキングを助けた、ということだ。

海外経験もなく、日本だけで英語をマスターした秘訣は、速読、速聴にあるとしか述べなかった。

だが、英語を読んで聴くだけで、英語がペラペラしゃべれるわけがない。

言葉は使うものであり、英語も一言語である限りは、使わねばスピーキングを伸ばすことはできない。

情報と共にふくれあがっていく英語情報を、いかにアウトプットするか。

英語をコミュニケーションの武器として学ぶには、必ず、相手がいる。

外壁 リフォームのように山に閉じこもって、孤独に耐えながら、スピーキングができるわけがない。

そこで、私は日記を選んだのである。

英文日記。

これが、インプットをアウトプットに結びつける橋渡しとなった。

言いたいことは必ず言語化できる。

ニつの博覧会とその前後

ロックフェラーやカーネギーにも泥棒貴族としての一面のあることは否定できません。


しかし、彼らはそれなりに宗教的倫理観から慈善家たり得たのでしょう。


バンダービルトやスタンフォードですら、今日では大学にその名をとどめています。


しかし、鉄道界における泥棒貴族について述べたのと同様、ここでも強調しておかねばならないのは、コクランが分析したようなセルフ・メイド.マンも、全体からみればごく少数にすぎなかったことです。


金メッキ時代の時期を画し、しかもそれを最も鮮やかに象徴する出来事は、1870年代と1890年代の2つの恐慌、その渦中で行われたアメリカ建国百年記念博覧会(フィラデルフィア、1876年)と、アメリカ大陸発見400年を祝うコロンブス世界博覧会(シカゴ、1893年)・・・


そして、その直後に起こった大規模な鉄道スト(1877年)、プルマン・ストという名で知られる激しい鉄道争議(1894年)などでした。


こうした出来事は金メッキ時代の高揚した気運と、その裏腹の深刻な社会不安、変化の激しさを象徴していたばかりでなく、同時にこれら出来事の発生は決して偶然ではなく、相互に結びつけられていたのです。


・・・はじめの恐慌は1873年に起こり、1878年まで続きました。

旅の歌 5

大伯皇女の、この弟を思うひたむきな思いを知った持統天皇は、この姉宮さえ亡きものにしたい、と思ったかもしれません


二上山は見る限りにおいては、やさしい山相であるけれども、事実この山へのぼるには思ったより瞼岨なみちであることを覚悟しなければなりません。


アルカイト原石という、ごろごろみちがあり、雌岳から雄岳にむかう急坂は、息の喘ぐような岩場です。


ここを、大伯皇女は、弟のたまふりのために、しげしげと墓へかよったとも言われています。


死を前提とした旅が、大伯皇女に課されたことを思うと、大伯皇女も、この山の上でともに死を思うことが
あったかもしれません


事実、この山から、かつての浄御原であった位置を見おろしていると、たましいが鎮まる前に、嘆きのこえを発したくなるような孤独感が湧出してきそうな山でした。


大和へ帰還の旅も、喪ったものへのさびしさに浸された旅も、大伯皇女にとっては切実な運命を思わずにはいられない旅だったのです。

旅の歌 4

二上山は大和盆地と河内平野をさえぎっている葛城山脈の北端にあたり、大和盆地から仰げば、二つの馬の背のような嶺をもっていました。


雄岳と雌岳があり、その間にしずむ夕陽は荘厳であって、西方浄土を思わせる場でもありました。


むくわれることなくさまよう霊魂をここにまつることによって、持統天皇はいくらか心やすまる思いをもったのでしょうか。


うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわか見む 大伯皇女


〔私は生きていますのに、皇子はすでに亡く、二上山に魂しずまりました。この二上山を弟と思って見ることにいたしましょう。〕


・・・言葉かよわぬ二人となった嘆きは、大和平野を中にしてかなしみをかわす場になりました。


磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りといはなくに 大伯皇女


〔磯のあたりに咲いているあしびを手折ろうと思いますけれど、手折ったとて、お見せする皇子はもはやこの世にはいられませぬ。〕


大伯皇女は伊勢からの旅が終って大和へかえってからも、二上山が西方浄土であるとは言っても、ここの夕映えはいたくさびしいものでした。